川端康成『眠れる美女』
川端康成といえば『雪国』や『伊豆の踊子』が有名だ。あえてそこを読まずにこの本を読んだのは、文学少女気取りゆえか、はたまたただの変態か。(両方です)
『眠れる美女』は、衰えた老人たちが前後不覚に眠らされた若い生娘たちの傍らで一夜を過ごすことができるという館に、主人公の江口が知人の紹介で訪れるというところから始まる。
しかし、老人は決して彼女たちを「性」の対象として見ていない。いや、もはや見ることができないと言った方が適切だろうか。彼らは男ではなく、老いによってただ死を待つだけの老人なのである。
そんな枯れきった老人たちは彼女たちに何を見ているのか。それは「生」と「死」だ。彼女たちの白くみずみずしい乳房、生暖かい寝息、においたつ暖かさを透して自らの老いと迫りくる死を見ると共に、生の恵みを享受している。彼らにとって彼女たちは、一人の人間ではなく命そのものなのである。
江口は、それを老いのみにくさ、情けなさであると思うが、自分もそのような老人になるのはそう遠くないと感じるのだった。
そうしてすっかり慣れた四度目の夜、江口は母の夢から目覚めると横に眠っていた娘の心臓がとまっていることに気付く。
作中に、
『夜が用意してくれるもの、蟇、黒犬、水死人のたぐい』
という引用がある。調べてみると、中城ふみ子という戦後の代表的な歌人の詩らしい。私は知らなかったが、有名な歌人なのだろうか。私が書くと「夜が用意してくれるもの、不安、絶望、逃避行のループ」となる。ひどい夜だ。
小説は情景描写がしっかりとしていて読んでいると頭の中でその場面を思い描くことができるわけだが、この作品では娘たちの描写が多い。いや、それは当たり前なのだが、個人的に口の描写が特に細かい気がする。
八重歯が小さいだの歯が乾いているのが濡れてなめらかになっただの口に小指をつっこんでみただの、かなりフェチズムを感じる。川端康成は口フェチなのか?因みに、谷崎潤一郎は足フェチではないかと私は思っている。そして私はふとももフェチである。(どうでもいい)
この作品のオチについて。私の読みが浅いのだろうが、どうもオチが良くないというか、それで終わり?と思ってしまった。
母の夢から目覚めたあと江口は色黒の娘が冷たくなっているのに気づく。色黒の娘の伏線は電気毛布、鼓動の弱さ、脂汗のことかなと思ったが、母との関連性がわからない。最初の女が母で最後の女が色黒の娘?どちらも死んだことによって江口が男ではなく老い衰えた老人になったという暗示?
それくらいしか私には考えが及ばなかった。もしそれだけなら、この終わりはちょっとつまらないというか、微妙。なんだかぶっきらぼうに感じる。『眠れる美女』という題名ならば、最後はパッと目を覚まして「うわ!ジジイきも!」くらいの捨て台詞を吐いて颯爽と去っていってほしいものだ。
正直私にはこの老人たちの気持ちがわからなかった。つい先日19になったばかりの小娘に、老いのみにくさやら生のよろこびやらがわかるはずない。むしろ眠らされる側の人間であるし。今の私はまだこの作品の本当の意味を理解できないが、いつか自分も眠れる若いイケメンの横で、死の恐怖に震えながら少しでも若さを吸いたくなった時が来たら、また読んでみようと思う。
最後に、一番印象に残った文章を。
「してみれば『眠れる美女』は仏のようなものではないか。そして生き身である。娘の若いはだやにおいは、そういうあわれな老人どもをゆるしなぐさめるようなのであろう。」